2018-04-03 第196回国会 衆議院 本会議 第15号
当時、イギリスでは手工業による毛織物産業が盛んでしたが、産業革命によって機械が普及して、職がなくなると恐れた人々は、機械打ち壊し運動、ラッダイト運動を起こしました。しかし、幾ら機械を打ち壊しても、また別のところで機械はつくられ、産業革命の波はとめることができなかったのです。そして、職を失った手工業者は都市部に流れ、資本家の工場で働く労働者として雇用が吸収されていきました。
当時、イギリスでは手工業による毛織物産業が盛んでしたが、産業革命によって機械が普及して、職がなくなると恐れた人々は、機械打ち壊し運動、ラッダイト運動を起こしました。しかし、幾ら機械を打ち壊しても、また別のところで機械はつくられ、産業革命の波はとめることができなかったのです。そして、職を失った手工業者は都市部に流れ、資本家の工場で働く労働者として雇用が吸収されていきました。
○世耕国務大臣 御指摘のように、我が国には、一宮の毛織物あるいは燕三条の金属加工品など、地場産業が集積しているいわゆる産地と言われるものが数多く存在しています。これらはいずれも、地域における雇用を支えるとともに、付加価値の源泉となっているわけでありまして、地域経済にとっての不可欠の存在として認識をしております。
といいますのは、明治になって第一回内国博覧会というときにガラ紡という、いわゆる機織りの生産性を十倍ぐらいにする機械を作った方が、臥雲辰致という人がいるんですけれども、この方が第一回内国博覧会にこのガラ紡を出したら、もう大変評判で、そのことによってだんだん綿でも毛織物でも生産性が上がっていったんですけれども、第二回内国博覧会のときにその模倣品がいっぱい出てきたんだそうですね。
工場を見学したいという方には、タオル工場ももちろんありますし、そしてまた毛織物工場、そして、だんじりの工房、そしてまたリールをつくっている工場、いろいろな工場があるわけでございまして、これらの地方の魅力、そしてそういう工場群を体系立てて整理をして、そして国と一致協力して世界にアピールしていく、それが今求められているのではないか。
長大株式会社は、一宮市において高級紳士服地、婦人服地の製造販売及び原糸染色加工を行っており、毛織物の一大産地である尾州織物産地における主力企業の一つであります。尾州織物産地においては、経済情勢の変化、新興国からの輸入の増大等により、全体的に苦境に置かれている現状の説明があり、その後、工場の視察を行いました。
次いで、男子用衣服、スーツ等の委託加工のための原材料品としての合繊織物、あるいは毛織物や綿織物が大宗を占めております繊維関係が八・七億円で一二・六%。それから、絶縁電線とかスイッチ、ヒューズのたぐいでございますが、こういったものの関連の電気機器関係が五・五億円、八%ということになっております。
合繊、綿、毛織物のたぐいでございます織物、糸が四・九億円。絶縁電線、電気回路などの電気機器類が四・七億円。エアコン、ポンプなどの一般機械が二・四億円。それから、鉄管あるいは鉄管用の継ぎ手のような鉄鋼製品が〇・九億円ということになっております。
で、乗用車等も含めまして、輸送機械全体で三二%、それから毛織物、化繊織物の繊維製品が二三%、この二つの品目の範疇で過半を占めるわけでございます。 一方、その輸入でございますが、先ほど御指摘ございましたアサリを始めまして、ズワイガニも含めました魚介類が四五%、これにマツタケ等を含みます野菜が五%、スーツ、ジャケット等の衣類が二一%、これらの品目で七割を超えるというような状況になるわけでございます。
また、景気の変動等に伴い事業活動の縮小を余儀なくされ、休業等を行うことにより労働者の雇用維持を図る毛織物業等の業種に属する事業主に対し雇用調整助成金を支給することにより、失業の予防を図っているところであります。
そのほか、毛織物の関税率については、米国が九八年、現在三一・七%と、我が国の九・六%に比べてはるかに高く設定。これは日米繊維交渉のときからもう依然としてこの格差は縮まっていない。 私の郷土新潟県は、この繊維産業が盛んなところでありまして、その大きな犠牲に今日まであえいできているわけでありますが、いつまでたってもなかなか是正されない。化合繊維織物は一六・二%に比べて我が国は六・四%。
東海地域は毛織物でございます。ところが、一九六〇年ごろになりますと、その地域から途上国であります韓国とか台湾に繊維産業は移っていきます。日本のリーディング産業は空洞化していくわけであります。 その次の日本のリーディング産業は重化学工業であります。鉄鋼、石油化学、それから造船、そういったものであります。
EU全体からの輸入は四%ぐらいでございますが、イタリアにつきましては毛織物あるいはニットを中心に最近輸入がふえておりまして、ただ、全体に占める割合は一・二%程度のものでございます。 昨年の輸入状況を申し上げますと、数量ベースでいきますと、一七%の輸入の増加がございました。
○伊藤公述人 私は、古くから毛織物の町として皆様方から御認識をいただいております愛知県一宮市の市議会議長の伊藤俊と申します。 地方議会での発言には私もようやくなれてまいりましたが、国会という国権の最高機関であり、国の唯一の立法府で国政にかかわる大事について意見を陳述できますことは、まことに晴れがましく、小学生が学芸会の舞台に立ったときのような緊張を覚えております。
九月の財務局のアンケート調査によると七、八月ごろから管内の地場産業の生産、出荷は減少し、収益も低くなって、毛織物を除いて各企業とも先行きの経済見通しは弱気になっているとのことでありました。さらに、名古屋国税局では七月に、税目別の局内組織を法人と個人とに区分した編成に改め、国税広報室を新設するなど納税者にわかりやすい機構にしたが、特に窓口の混乱もなく円滑に実施されているとの報告を受けました。
そこでNIESとは言えないかもしれませんが、現在、中国の綿糸、綿織物、さらには毛糸、毛織物、羊毛ですね、これについての計画は詳しいことよくわかりませんが、仄聞するところによると、もしあのままの計画で中国が計画どおりに実施した場合あるいは実現した場合には、十年後、日本の繊維産業はどうなるであろうかという危惧を私持っておるんですが、それらについては通産省としては何かお考えあるいはお見通しがあるかどうか、
御質問の綿織物、毛織物の点でございますが、綿糸につきましては、私ども持っております資料によりますと、生産能力は今や世界一ということでございまして、日本の約八倍を超える設備を持っておりますし、綿織物も世界一というレベルに達しておりまして、我が国の綿織物の輸入の主要なソースは中国になっているという状況でございます。
具体的に説明を一例でさせていただきますと、例えば毛織物の業種を例にとらしていただきますと、織物業者と染色業者、それに整経業者、これは縦糸を整理する業者でございますが、これが連携して行うというのを一つのケースとして頭に置きますと、まず共同の施設としてホストコンピューターを置く。これで何をやるかといいますと、需要情報をとらえてくる。
○岡松政府委員 実需対応型補完連携というのの具体例でございますが、一つの例として考えておりますのは、毛織物のケースでございます。
綿スフ織物業、化合繊織物業、絹織物業、毛織物業、タオル織物業、編みレース製造業、それから問題の撚糸業でございます。このうち化合繊織物業と絹織物業は同一団体で実施をいたしておりますので、七業種六団体で行っているという状況でございます。なお、六十一年度からのスタートということで用意をいたしておりました業種が二、三あるわけでございます。
○国務大臣(江崎真澄君) 私はたまたまこういう毛織物を織る地帯の選出でもあります。したがって事情がわかっておりますから、組合長に少し権限の持たせ過ぎじゃないかと。組合長の恣意によって、気に入った業者には融資あっせんの共同保証をするし、気に入らない業者には保証をしない。
○篠島政府委員 昨年の十二月初めに、現在廃棄事業を行おうとしております綿糸それから綿スフ織物、絹人繊織物、日本毛織物等工業組合あるいはタオル工業組合、こういった組合にかかわる品種につきまして、それぞれ買い上げ単価を設定いたしまして、この三月の初めにそれぞれ説明会を関係業界に対して開き、それから三月末には指導会議を開きまして、現在関係工連に対して指導会議の事情聴取に基づく若干の勧告をしておりますが、その
そこでもう一つは、織機の種類がいろいろありますが、例えば毛織物は毛織機で織るし、綿は綿織機で織る、ところが合繊はどの織機でも織れる、こういう点がありますね。
そういう強い決意をいただいて私も敬意を表するわけですが、これらのも織物の座元は大部分が尾西地区、尾北地区、あるいはまた津島地区、そして岐阜地区、これが毛織物の一番大きな産地であることは、これは御案内のとおりだと思うのです。 だから私は、その中身で実態を考えまして、そして、これが六十年の十二月にはまた切れるわけです。ですから、もう既に交渉が始まろうとするはずだと思うのです、次のことについて。
したがって、もろもろの関税が相当引き下げられているという現状の中で、毛織物については特に高関税が残っているというのは御指摘のとおりだと思っております。 我が国の場合も、関税につきましていろいろな議論がございます。毛織物というのは繊維の中では比較的高い水準の方に属するかと思います。
○渡辺(嘉)委員 それでは、先ほども出ておりましたけれども、繊維産業の輸出輸入の問題について承りたいのですが、まず一つの例を毛織物業界にとりますと、昭和四十三年から四十五年当時は、これが輸出のピークで、北米を初め輸出しておったわけですね。その輸出額は生産額の約一三%ぐらい、毛織物の例をとりますと輸出をしておりました。約五千八百万平方メートル、これを輸出しておった。